大人の家遊び.com

ゆとりの法則

ゆとり世代の筆者が社会人向けに、自身の実践する友達との遊び方をプレゼンツ。

西遊記の沙悟浄の意外な出自。「悟浄出世・悟浄歎異」から学ぶ生き方のはなし

f:id:kehama04:20190518234741j:plain

こんにちは。hamataroです。今回は読書ネタということで、「悟浄出世」と「悟浄歎異」という小説を紹介したいと思います。この話はみんさんおそらく高校で読んだことのあるであろう「山月記」で有名な、中島敦の書いた小説です。エンターテイメントというよりは教訓となる部分が多かったため、特に生き方という観点からこの小説の話を紹介していきたいと思います。

 

あらすじ

これら話の主人公は悟浄こと沙悟浄で、皆さんご存知西遊記で、三蔵法師の従える3従者の一人です。見た目は河童。そしてこの「悟浄出世」は、その悟浄が三蔵法師と出会う前の暮らしと、出会うに至った経緯を記しています。そして「悟浄歎異」では、沙悟浄三蔵法師と出会った後のエピソードについて書かれています。

まずは「悟浄出世」の簡単なあらすじを踏まえたのち、次章で個人的に面白いと思った部分を考察していきたいと思います。

主人公の悟浄は生まれながらにある病気を持っていました。それは身体的なものではなく精神的なもので、あらゆるものを深く考えすぎてしまい、その末にすべてがわからなくなり、いつも気分が沈んでいるというもの。頭でっかちで何をするにも深く考えをめぐらさずにはいられず、ついには独り言までぶつぶつ言ってしまう始末。それにも関わらず答えが出ることは決してなく、いつも堂々巡りなので落ち込んでいる。そういった病気です。ようするに鬱みたいな感じ。

そんな時、悟浄は占い師である、とある魚の妖怪に出会い、こういわれます。

やれ、いたわしや。因果な病にかかったものじゃ。この病にかかったが最後、百人の内九十九人までは惨めな一生を送らねばなりませぬぞ。元来、我々の中にはなかった病気じゃが、我々が人間を咋(く)うようになってから、我々の間にもごくまれに、これに侵されるものがでてきたのじゃ。何を見ても、何に出会うても『なぜ?』とすぐに考える。究極の・正真正銘の・神様だけがご存知の『なぜ?』を考えようとするのじゃ。・・・(中略)・・・お気の毒じゃが、この病には薬もなければ、医者もない。自分で治すよりほかないのじゃ。

何やら妖怪の世界では、精神の苦しみと肉体の苦しみは人間ほど分かれていないらしく、悟浄はその苦しみに耐えかねて、この病を治すために妖怪界の様々な賢者に会いに行くことを決意します。ここからは様々な妖怪が各々の知恵(何を指針にして生きていくべきか)を悟浄に諭してきます。これは人間の世界でもよく言われる人生の目的について、様々な切り口や価値観から語ったもので、過去の哲学者の考え方をなぞったものあり、なかなか読みごたえがあります。

それらが一体どういうものか、最終的に悟浄がどのような選択をしたのか、というのは実際に読んでみて確かめてみてください(下記の考察で一部ネタバレあり)。

 

面白かったところ

f:id:kehama04:20190518235226j:plain

孫悟空といえば。

ここからは個人的に印象に残った文章を取り上げ、考察を加えていきます。まずは「悟浄出世」から。

女偊氏(妖怪の賢者の名前)は、自分のかつて識(し)っていた、ある神智を有する魔物のことを話した。その魔物は、上は星辰の運行から、下は微生物類の生死に至るまで、何一つ知らぬことなく、・・・(中略)・・・ところが、この魔物はたいへん不幸だった。というのは、この魔物があるときふと、「自分のすべて予見しうる全世界の出来事が、何故に(経過的ないかにしてではなく、根本的な何故に)そのごとく起こらねばならぬか」ということに想到し、その究極の理由が、かれの深甚微妙なる大計算をもってしてもついに探し出せないことを見いだしたからである。何故向日葵は黄色いか、何故草は緑か。何故すべてがかく在るか。この疑問が、この神通力広大な魔物を苦しめ悩ませ、ついに惨めな死にまで導いたのであった。

 

最後に、師(女偊氏のこと)は次のようなことを言った。「聖なる狂気を知るものは幸いじゃ。彼はみずからを殺すことによって、みずからを救うからじゃ。聖なる狂気を知らぬものは禍いじゃ。彼は、みずからを殺しも生かしもせぬことによって徐々に亡びるからじゃ。愛するとは、より高貴な理解のしかた。行うとは、より明確な思索のしかたであると知れ。何事も意識の毒汁の中に浸さずにはいられぬ憐れな悟浄よ。我々の運命を決定する大きな変化は、みんな意識を伴わずに行われるのだぞ。考えてもみよ、お前が生まれたとき、お前はそれを意識しておったか?」

 

そこで渠(かれ)ははじめて、自分の中にあった卑しい功利的なものに気づいた。嶮(けわ)しい途(みち)を選んで苦しみぬいた揚句に、さて結局救われないとなったら取返しのつかない損だ、という気持ちが知らず知らずの間に、自分の不決断に作用していたのだ。骨折り損を避けるために、骨はさして折れない代わりに決定的な損亡へしか導かない途に留まろうというのが、不精で愚かで卑しい俺の気持ちだったのだ。・・・(中略)・・・自分は今まで自己の幸福を求めてきたのではなく、世界の意味を尋ねてきたきたと自分では思っていたが、それはとんでもない間違いで、実は、そういう変わった形式のもとに、最も執念深く自己の幸福を探していたのだということが、悟浄に解りかけてきた。・・・(中略)・・・そんな生意気を言う前に、とにかく、自分でもまだ知らないでいるに違いない自己を試み展開してみようという勇気が出てきた。躊躇する前に試みよう。結果の成否は考えずに、ただ、試みるために全力を挙げて試みよう。

ほぼこの小説の核心部分となってしまうので、ここで記載するのは少し後ろめたかったですが、引用してみました。 生きていく中では様々な決断をしなければなりませんが、特に重要な決断の時こそ、迷い立ち止まってしまうことも多いかと思います。

特殊な場合には、自分は進んでいると思っていても、客観的に見るとぐずぐず決断を先延ばしているたけの場合もありますが。。そんなときに、まずは行動の中に身を投げてみるという考え方を持っておくことは、大事なのかなと思います。最近ではビジネスの文脈でもFail Often, Fail Firstが唱えられるようになってきたので、みなさん案外なじみのある教訓かもしれません。

その後、悟浄はふと現れた仏様の助言に従い、三蔵法師率いる一段に巡り合い行動を共にすることとなります。それ以降は私たちの知っている西遊記なんだと思います(みたことはない)。

 

次はその三蔵法師と会った後を描いた「悟浄歎異」から。悟浄から見た悟空の姿について。

悟空はたしかに天才だ。これは疑いない。・・・(中略)・・・この男の中には常に火が燃えている。豊かな、激しい火が。その火はすぐにかたわらにいる者に移る。彼の言葉を聞いているうちに、自然にこちらも彼の信ずるとおりに信じないではいられなくなってくる。彼のかたわらにいるだけで、こちらまでが何か豊かな自信に充ちてくる。彼は火種。世界は彼のために用意された薪。世界は彼によって燃やされるために在る。

 

もともと意味を有(も)った外の世界が彼の注意を惹くというよりは、むしろ、彼のほうで外の世界に一つ一つ意味を与えていくように思われる。彼の内なる火が、外の世界に空しく冷えたまま眠っている火薬に、いちいち点火していくのである。探偵の眼をもってそれらを探し出すのではなく、詩人の心をもって彼に触れるすべてを温め、そこから種々な思いがけない芽を出させ、実を結ばせるのだ。だから、渠(かれ)・悟空の眼にとって平凡陳腐なものは何一つない。毎日早朝に起きると決まって彼は日の出を拝み、そして、はじめてそれを見るもののような驚嘆をもってその美に感じ入っている。

 

災厄は、悟空の火にとって、油である。困難に出会うとき、彼の全身は(精神も肉体も)焔々と燃上がる。逆に、平穏無事のとき、彼はおかしいほど、しょげている。独楽のように、彼は、いつも全速力で廻っていなければ、倒れてしまうのだ。困難な現実も、悟空にとっては、一つの地図 - 目的地への最短の路がハッキリと太く線を引かれた一つの地図として映るらしい。

世界から意味を求めさまよう悟浄とは対照的に、自ら世界に意味を見出す悟空の姿勢の違いが、鮮やかすぎるくらいに描かれています。いやーこういう表現というか、文章を読んでいると、文才という才能のすごさを身にしみて感じます。そしてより一層、悟空に憧れる悟浄の姿も伝わってきます。

優れた小説を読むことの利点の一つは、自分の理想とする人物像を見つけることができることだと思いますが、私にとってこの悟空の生きざまはとても参考になるものだと思っています。そういう意味では別の本ですが、「岩に立つ」という三浦綾子さんの小説に出てくる棟梁も、とても惹かれる人物の一人でした。ぜひ一読をお勧めします。

 

 ということで、「悟浄出世」・「悟浄歎異」の紹介でした。それでは。