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ゆとりの法則

ゆとり世代の筆者が社会人向けに、自身の実践する友達との遊び方をプレゼンツ。

人間の欲望に果てがない理由、あるいは自己実現欲求の正体について

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こんにちは。hamataroです。今回は読書ネタということで、人間の欲望の起源に迫っていきたいと思います。その足掛かりとなる理論として、まずは「ものぐさ精神分析」という本について紹介したいと思います。筆者は岸田秀さんで、1982年に刊行されて当時はちょっとしたブームになったようです。

書籍タイトルにある「精神分析」といえば最も有名なのは創始者であるジグムント・フロイトで、みなさんも一度は聞いたことがあると思います。ちょっと前に流行ったアドラーなんかは彼の弟子でしたね。精神分析の考え方についてはここでは割愛しますが、この本はこの精神分析的な見方を、個人ではなく社会(特に日本社会)という大きなスケールに適用し、様々な分析を試みています。全部で30弱のテーマがあり、それぞれ独立したエッセイとなっています。

どのテーマも非常に面白く、目次を見るだけで色々と想像してしまいますが、今回はこのエントリのタイトルでもある、”人間の欲深さの起源”という点について触れている部分を紹介し、考察を加えていきたいと思います。人間の行動原理の大本について理解を深めるというのは、生きる上で色々と役に立つと思うので、やや難解な部分があるかもしれませんが、ぜひご一読ください。目次でいうと、「3.国家論」が中心になってくると思います。

 

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目次一覧

 

本能の壊れた動物としての人間

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人間がその他の動物と著しく違うようになったのはなぜでしょうか?その大きな原因は、人間が他の動物に比べて、未熟な状態で生まれてくることに関係があると「ものぐさ精神分析」の筆者は述べています(さらにその原因は何か?ということまでは述べられていませんが、突然変異でおこる、ということも考えられなくはないのかも)。

根本の原因の是非はともかく、事実としてそういう境遇に置かれた人間は、滅亡の危機に瀕します。なぜなら自活できるようになるまでここまで長い期間保護が必要となれば、保護する側の負担は、元々動物が持っていた母性愛という本能を軽く超えていくものだと思われるからです。お母さんの育児の苦労がわかりますね。

しかし、最も重要なのはこの保護者の負担の重さにあるのではなく、保護される側の心理状態の変化にあります。現実の中に放り出されれば死ぬしかない子供を、親は何から何まで世話しなければなりません。一方で生まれたばかりの子供は、感覚運動器官が未発達なため、現実と非現実(=精神上の現実。空想ともいう)、自己と他者の区別もままなりません。しかしそれでも現実の中に生きていることは間違いないので、親に保護され生きていく幼児は次第にこう思うようになります。「何もしなくてもすべてが思い通りに満たされるのがこの世界である」。

これを筆者は「私的幻想」と呼んでおり、人間のナルシスティックな欲求の起源だと考えています。本来は現実に即して生存のための指針を示すための人間の動物としての本能は、ここで完全に壊れてしまいます。

そして次第に感覚運動器官が発達し、現実と空想の区別、また自己と他者の区別がついてくると、幼児にとって自分の思い通り(空想の通り)にならないことはもちろん増えていきます。体を動かすこと一つとってもそうであるし、他人や自分を取り巻く環境も完全に自分の思い通りにはならない。

このショックは計り知れないものだと思います。しかし全員が全員この私的幻想を貫けば、世界は殺戮渦巻く恐ろしい世界になってしまいます。そこで人間は、現実に即して生存していくために、壊れた本能である私的幻想とは別に、自我意識を発達させ、何とかしてこの自己中心的な欲望を、現実と折り合いのつくものにするように頭を使い始めます。逆に言えば、人間の悩みの大部分は、この折り合いをどうつけていくか、ということに由来するものであるといえます。これ大事。

そしてそのための道具として人間が創り上げたのが、いわゆる文化や伝統、倫理などだということになるのですが、その続きはぜひ実際に読んでみてください。

 

物心と原罪

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エデンの園と堕落

個人的には、先ほど述べたような過程が、いわゆる物心がつくというやつなのかなと思っています。人間を除く動物は生まれた時から短時間で自活できるようになるため、親の保護による私的幻想をはぐくむ必要が少なくて済み、その分物心という自我意識を持つ必要が少なくなります。哺乳類であれば多少長いですが、魚などはあっという間に成長するので、自我を持っている程度は低いといえるかもしれません。

どこかの本で読んだのですが、聖書に描かれた「原罪」のエピソードは、これを人類が直感的に理解し描いたものかもしれないのだそうです。原罪のエピソードとは、人類の始祖と言われているアダムとイブが、神に禁じられた「知恵の実」を食べてしまい、エデンの園から追い出されてしまうという話です。これを堕落と呼び、その罪は原罪と呼ばれます。

すべてが何不自由なく与えられていたエデンの園での生活は、親から保護されていた幼児期のことを指し、禁じられた知恵の実を食べ、そこからの追放されたことは、人間がままならい現実と折り合いをつけるために自我を形成したことすなわち、あたかも神と同等の知能を手に入れたことを指します。キリスト教ではこの原罪はすべての人間が生まれながらにして背負っている罪だとしていますが、今回の話を踏まえるのであれば、確かにすべての「人間」と呼ばれる存在は、生まれながらに私的幻想と現実の断絶に悩み苦しむという宿命を背負っているといえます。この人間の高度な知能(=自我)は、その”呪い”の産物ともいえるわけです。

 

動機善なりや、私心なかりしか

つまり何が言いたかったかというと、人間は本能の壊れた動物であり、元来自己中心的な欲望を持ちやすい動物であるということです。そして私的幻想の中ではあくまでも自分は全知全能の存在なので、動物と違い欲求に際限がなく、どこまでも欲求は膨れ上がってしまいます。しかしその一方で、本能は完全に壊れて無くなってしまったわけではなく、時にはその本能に基づいた健全な満足を求めて行動することもあるわけです。これがいわゆる性善説性悪説がどちらも強力な理論として、お互いに排除されない理由だと思います。実際には両者は同時に存在します。

例えば人を愛するということ一つとっても、その背後に私的幻想基づく自己中心的な欲求がある場合もありますし、自分の身近な人間を大切にしたいという動物に似た自然な欲求がある場合もあります。おそらく前者はいびつで際限のない形となり、後者はある程度のところで満足を迎える健全なものとなるのだと思います。現実には両者は混じり合っていて、割合や程度の問題なのだと思いますが。

自分や周りのひとを突き動かしている者の背後に何があるのか、それを疑ってみることはとても実り多いことだと思います。往々にして本人自体もその動機に気づいていないことがあります。そしてそのメカニズムを解明しようとしたのが、精神分析であると私は思っています。というより、古今東西あらゆる哲学や倫理学、神学までもが、このような人間がいかに生きるべきか、ということを散々考え抜いてきたのだ、とも言えると思います。

 

マズローの”至高経験”との関連性

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マリオみたいなマズローおじさん

ここまで話を進めてきたときに、それでは一体、善い欲望とは何か、ということが問題となります。そもそも存在するのか、ということも含めて。

その時に一つ参考になるのが、みなさんご存知マズロー欲求段階説マズローは明確に5段階があるとは言っていないらしいのですが、それでも欲求には大きく二つの欲求(または動機)が存在すると明言しています。それは欠乏動機と成長動機です。

安全・所属・愛情関係・尊敬を求める欲求は、他人のみが、つまりその当人以外の人だけが満足させることができる。このことは、環境に対してかなりの依存があることを示している。・・・中略・・・かれは、必要とする満足の供給源となる人びとに、世話にならなければならない。・・・中略・・・かれはいくぶん「他人志向」にならねばならず、他人の是認、愛情、善意に敏感であらねばならないのである。・・・中略・・・このため、欠乏欲求に動機づけられている人は、環境をおそれねばならない。

これと対照的に、基本的欲求のみたされたと考えられる自己実現人においては、依存したり、恩恵を受けたりすることが少なく、自律的、自己志向的である。成長動機を持つ人びとは、他人を求めるどころか、現実にそれに悩まされていることもある。・・・中略・・・このような人びとは、独立自足的になる。彼らを支配する決定要因は、もはや基本的に内的なもので、社会的なものでも環境的なものでもない。それらは、彼ら自身の精神的本性の法則であり、可能性や能力であり、才能、潜在性、創造的衝動である。自己を知ろうとする欲求であり、ますます統合し、一貫したものになろうとする欲求である。さらにまた、現実の自己や理想の自己、自己の使命、職業、運命を自覚するようになろうとする欲求である。

- 「完全なる人間」より

 

マズローが被験者を観察したところによると、どうやら人間にはある程度の欲求(=欠乏欲求)が満たされると、自己実現に向かう成長欲求という新たな欲求が出てくるということです。ですが一方で、「ものぐさ精神分析」では、人間には本来自己中心的・ナルシスティックな欲求が”呪い”として備わっていると述べました。果たしてこの2つの理論はどのように結びつき合うのでしょうか?

私は個人的にこう解釈しています。この自己中心的な欲求も、自己実現のための成長欲求も、根は同じで、全知全能の創造主として、自らの思うがままの世界を実現したいという欲求である、と。ただ今一つの違いは、その本来自己中心的な欲求と対立する現実について、正しい認識ができているかどうかの違いです。

幼いころは現実がどのように動いているかの理解が浅いため、どうしても現実と私的幻想の対立は深まってしまいます。しかしその対立で傷つきながらも、現実の原則に対する理解が深まるにつれ、どうすれば自らの望むものが得られるのか、あるいはどの程度なら現実と対立せずにそれを望むことができるのか、ということがわかってきます(あまりにも初期の現実との対立が激しいと病むこともある)。そしてその高められた現実認識の中で、いかに自らの望む世界を創造できるか、という欲求が成長欲求なのだと思います。

なので自己実現欲求も本来利己的なものと言えます。しかしそれが望ましいのは、現実を正しく認識することによって、現実と対立する(例えば誰かを傷つけるなど)ことのない範囲で欲求を追求しているからであるし、また、人間はある程度共通点を持つものなので、ある人の欲求の追求の結果が、誰かのためになることは往々にしてあるからです。芸術家が作品を作る過程などは例としてわかりやすいと思います。

ちなみにマズローは、人間以外の動物は成長欲求を持たないのだろう、と述べています。これは「ものぐさ精神分析」で語られたことともリンクしており、動物は幼児期に私的幻想を持つことが少ないためだと思われます。そして人間が欠乏欲求を満たすのに苦労するのは、この全知全能の欲求があるために、自然のプログラムした欠乏欲求のレベルを大きく超えてしまうからだと思われます。必要以上の安全、必要以上の愛情、必要以上の尊敬を得ようとしてしまい、おかしな方向に進んでいく。

 

まとめ

ということで、記事タイトルに対するアンサーとして今回の内容をまとめたいと思います。人間の欲望に果てがないのは、他の動物とくらべて長い幼児期のおかげで育まれる私的幻想が原因であり、また、それが自己実現欲求の背後にもある。ただし、自己実現欲求は高められた現実認識に基づいているため、自分勝手な欲求とはならず、また多くの他者に恩恵を与えることにもつながる=利己的に見えて利他的でもある。

 

おまけ

先ほど引用で紹介したマズローの本はとても面白いので、最後におまけとしていくつか印象に残った部分を紹介したいと思います。

 まったく、利害関係を持たず、無欲で客観的、全体的に他人をとらえることのできるのは、かれからなにも求めようとせず、ただ、彼を求めている場合にのみ可能である。したがって、自己実現をする人びと(あるいは、自己実現の瞬間)にしてはじめて人間全体についての固有の審美的な理解ができるのである。さらにまた、自己実現をする人びとにしてはじめて、有用性の感謝にもとづくよりも、観察を受けるものの客観的、本質的な特質に対して、是認、賞賛、愛情を与えるのである。その人がご機嫌をとったり、ほめ讃えるからというより、客観的に立派な特質のために、賞賛を与えるのである。人が愛情を表明するからというより、その人に愛する価値があるから愛するのである。

こういう人づきあいができるといいなと思った部分です。大体にして漫画などの主人公はこういうタイプが多い気がする。

もう一丁。

自己実現は人格の発達と考えることができるが、それは、人が未発達からくる欠乏の問題や、人生における神経症の(あるいは小児的、空想的、無益、「非現実的」)問題から脱却し、人間生活の「現実」の問題(それは本質的・究極的に人間の問題であり、避けることのできない「実存」の問題で、これに対しては完全な解決はあり得ない)に立ち向かい、これに耐え、これをとりくむことができるようになることである。つまり、自己を実現するということは、問題がなくなることではなくて、過渡的あるいは非現実的な問題から、現実的な問題へと移ることである。ショッキングにいえば、自己実現する人は、自己を受け入れ、洞察力を持つ神経症者ということさえできると思う。というのは、こういういい方は、「本質的な人間状況を理解し、受け入れる」こと、つまり人間性の持つ「欠陥」を否定しようとするのではなく、これと立ち向かい、勇気をもって受け入れ、これに甘んじて楽しみさえ見出すというのと、ほとんど同じだからである。

問題が無くなるわけではなく、正しく問題に取り組めるようになる。 実存の問題とは、誤解を恐れずに端的に言えば、自らの避けられない死を意識することのできる人間が、いかに生きるべきかという問題のこと。

最後にもう一丁。

無意識のうちに、わたくしは、創造性が、ある職業に独占されるものと考えていたのであった。しかしこれらの予想はわたくしの被験者によって裏切られた。たとえば、無教育で貧しく、終日家事に追いまわされている母親である一婦人を例にとると、彼女はこれらの慣例的な意味での創造的なことは、なにもしていなかった。にもかかわらず、素晴らしい料理人であり、母親であり、妻であり、主婦なのである。わずかのお金で、その家はともかくもつねに小綺麗であった。彼女は完全なおかみさんなのである。彼女のつくる食事は御馳走である。彼女のリンネル、銀食器、ガラス食器、せともの、家具に対する好みは、間違いがない。彼女はこれらすべての領域で、独創的で、斬新で、器用で、思いもよらないもので、発明的であった。わたくしはまさに彼女を、創造的と呼ばざるを得なかったのである。

他の例は精神科医である。かれはなんら筆をとることもなければ、どのような理論も研究もつくり出すことはないが、人びとの自己形成を助けるという日常の仕事に、喜びを見出している「根っからの」臨床科医であった。この人は、患者一人一人を、まるで世界における唯一の人ででもあるかのように、専門語や予想や前提をもたないで、無垢、無邪気で、しかも偉大な識見と道教的な方法でもって、とり扱ったのである。・・・中略・・・わたくしはまた、別の人から、企業を設立することも創造的活動であり得ることを学んだ。若い体育家からは、完全なタックルは美的な作品であり、短詩でもあり、同じような創造的精神でとりあげられることを知ったのである。